a reminiscence

The most capacious measure is filled at last.

そして葬列は続く

61年前の今日、正午の玉音放送を以って日本国民にとっての大東亜戦争が終わった。

今日の事を「終戦記念日」と称する人も多いがあれは嫌だ。何が「記念」か、と私の気分を害する表現だ。

8月15日以降に日本の敗戦を知らず戦い続け、戦死した者も多くいる。私の祖父も北方戦線の戦没者の一人だが、死んだのは15日以降かも知れない。

何十年もジャングルに隠れ続けた者もいる。きっとまだいるだろう。

61年が終った今、世界から戦争が消える気配は無い。

戦争とは、マクロで見れば民族や宗教間の対立、領土や資源などの権益を巡る国家の利害の不一致、が代表的要因だ。しかし、ミクロで見ると戦争とは人が人を殺す「作業」なのだ。

いつもニュースで取り沙汰される殺人事件は被害者と加害者が明確だが、戦争において戦死者を悼む家族は憎悪の、復讐の対象を見失う。死は平等であるにもかかわらず、だ。

これからも戦争が終ることは無い。悲しい事だがそれは断言出来る。

何故なら、戦争が人が人を殺す作業である以上、その作業は憎しみの連鎖を生むリンクを繋ぎ続ける事に等しいからだ。人が死ぬこと、それ自体に国家の権益も民族の誇りも宗教的価値も無意味だ。

戦争が終る時、それは人類が滅ぶ時と同時だろう。