a reminiscence

The most capacious measure is filled at last.

余儀なくされる、ということ

6月より現場復帰であります。

気は重いが仕方が無い。仕事の時間だ。

何故仕事をしなければならないか。勿論、日本は貨幣社会だからだ。そして貨幣は基本的に「労働に対する対価としての賃金」という形によってのみ手に入れることが出来るからだ。私にとっては労働の動機はそれ以上でもそれ以下でもない。

ある人はそれは不幸な事だと言うし、別の人はそれでもいいと言う。

先日、友人に「仕事をするには自分の好きなこととのリンクがある、若しくは自分の労働によって生み出される何かに対する喜びを感じる、のどちらかが無いとやっていけないものだろうか」と聞いてみたら「そうだね」「そう思うよ」と言われた。

私もそれに賛成だ。人生は荒涼たる無限荒野の中を彷徨う壮大な暇潰しなのだ。重要なのは如何にその暇を上手に、楽しく潰すか、だと思う。労働時間が少しでもそれと重なるならそれは幸福な事なのであり、俗な言い方をすればその職業はその人に「向いている」のだ。勿論、好きでなくても得意な分野というものは存在する。逆もまた然り。だがこの話をすると話が脇道へ逸れるのでこれ以上は触れない。

最初に書いたことから察する事が出来る通り、私の仕事に対する姿勢は「ある人」のそれではなく「別の人」のそれだ。そして、ここが一番肝心且つ困った事なのだが、私はそれを「悲しいことだ」と思うし「間違っている」とさえ思っているのだ。勿論、私の信条だから、同じ事を他人に当て嵌めて考えはしない。

まだ愚痴を書き連ねる事は出来るが、要は私は現在の仕事に対して特に興味は無いがそれとは別の動機(私の場合は経済的必要性から)によって働き続けざるを得ない訳で、またその現状を受け入れざるを得ない、ということだ。