a reminiscence

The most capacious measure is filled at last.

常に思考回路を紐解き続けること。

こと私に限らず、人の思考回路は絡まった糸の様に複雑で鬱陶しい形をしている。

この形から目を背けて生きる事は容易い。「蓋」をしてしまえばいいのだから。

それとは別に、人は少なからず信条を持っている。それは「正義」と言い換えても良い。

これに関しては、「正義」の狭隘さに気付かず――その「正義」は自分の中でしか通用しない――それを普遍化してしまうことに大きな問題を抱えている。

更に言えば、上述している「正義」はイコールその人間の「世界」であり、死によってのみ世界は終焉を迎える事が可能になる。

以下、駄文をタラタラと連ねるので畳んでおく。

さて、私の場合。

私は世界の限界を知っている「つもりになっている」が、ただそれを超越する事も可能であると考えている。

「つもりになっている」と云うのは、それを知っていると認識すること自体自分自身の世界から抜け出せてはいない可能性を十分に孕んでいると云う意味である。

だからこそ、社会との接触は必要不可欠であり、他の世界と交流することによってのみ自分自身の世界の限界性や錯誤その他の所謂「間違い」を認識することができる。

重ねて云うが、常に片隅に置いておかなければならないのは「それすら自分自身という檻の中」にあるかも知れないと云う危機意識である。

それを払拭――決して「失念」してはならないのが困難な所であるが――し、自分自身の世界を拡大するためにも複数の他者との接触は重要であり、如何にそのエッセンスを吸収し、自己の相対化を図ることができるかを引き続き考えなければならないのである。

…凝り固まってるな、やっぱり。自分自身のこととは言え少し書いただけでここまで浮き彫りになるのか。書く事の重要性も付け加えなければなるまい。