a reminiscence

The most capacious measure is filled at last.

罪も人も憎い。

「罪を憎んで人を憎まず」とは、罪を犯すに至る諸々の事情や理由があったろうから罪を犯した人そのものまでも憎んではならないという孔子の教え。

自分はこんな高尚なことを実践するほど人間ができていないのであるが
そうあれるよう努力はしている。一応。

個人的な考えとしては、人を憎むのは楽なことだ。
事情も何も知ったことか、やったのはそいつじゃないかと言い放てば大体の場合相手は返す言葉もないし、憎む側からすると対象に実体がある方が憎みやすい。
罪に石を投げつけることはできないからだ。

私は楽をしたいとは思わないけれど、どうしてもまだ人が憎い。


以下、思い付くまま。

罪と人を安易にリンクさせてしまうと他の人がとばっちりを喰うこともある。
独裁とヒトラーが人の心の中であまりに簡単に結びついているために、自分勝手な人や批判されるような決定をした人たちが安易にヒトラーになぞらえられるようなもので。
例として適切ではない気がするけれどまあいいか。
何が言いたいかというと、人は罪と人をうまく「憎み分けている」と思うのだ。
上に挙げた例は罪の象徴として特定の誰かをイメージとともに吊し上げることで批判を増長する類のものだが、例えばこの間の原発問題でも原子力エネルギーが悪いのか、原子力発電が悪いのか、原子力技術を民間に転用したことが悪いのか、電力会社が悪いのか、電力会社の重役が悪いのか、動燃から続く体質が悪いのか、政治家が悪いのか、他にもたくさんあって実際一人一人に詳しく訊いてみるとみんな違うと思う。
その辺のよく分かっていない層を実際にはぼんやりとしているのだけれども飛びつきやすいターゲットに集中させて「何となくその気にさせられている」のだ。最終的には、電力会社に勤めている人の家のポストに誹謗中傷を書いた手紙を放り込んだりして満足させられているのだ。