a reminiscence

The most capacious measure is filled at last.

心を食われすぎないために考えていること

  • 人を嫌いになると、自分を嫌いになる。自分を嫌いになると、人を疑うようになる。ちなみに、スパイラルがサイクルに対して良い点は、入口と出口があることです。
  • 個人的には博愛主義者のつもりでいたのですが、結局私にも「嫌いな人」はいる訳で、聖人君子など六つ先の輪廻にも巡っては来なさそうです。
  • 何か問題が起こった時には、自分の中に非を見出すことで決着させます。人を嫌いになることを悪と捉える以上、自分の外側に悪い要因はない訳で、必然自分の不徳の致すところのものとなります。
  • これの問題点は、本当はそこまで自分が悪い訳ではないことまで自分の欠点に関連づけてしまうことです。意味は同じですが、どちらかが正しくてもう一方は間違っているという前提で考えることです。
  • 後にして思ったり聞いたりすることは、自分が思うほど自分は責められてもいないし、責められるべきでもないということです。そうなると結果、諸々取り越し苦労と言うか、「自責損」だと思います。場合によっては、そもそも誰かが責めを負う話ですらないのです。
  • また、精神衛生上よろしくない感情も、それ自体を問題視する訳ではなく、そう考えるとつらくなるという生理現象辺りに持って行けば、捉えようも変わるかも知れません。
  • 最初に戻って、一番恐ろしいのは「疑う」ことだと思います。何かで聞きましたが、疑心暗鬼というのは、字の如く心を喰う鬼だということだそうです。マンガで読んだような。
  • これを打倒するのは不可能なので、そこはあっさりと割り切って、そういう自分もそれを許さない自分もどちらも自分自身であって、嘘はついていないと切り替えました。
  • 初めに自分にとって自分という存在は替えのきかないものであり、次に自分で考えているよりも広く世界と関わっていて、最後に自分で考えているよりも深くは世界と関わっていないと再認識しました。
  • そして、自分の精神が不完全であること自体については、自分自身を含め誰にとっても、任意の価値基軸で評価できる種類のものではないと思います。何か思うところがあるとしても、それは評価ではなく感想だと考えています。